先日も、某男性から、患者会についてのお問い合わせのお電話があった。
こちらの活動拠点は、東部地区の杉戸であるが、そのお電話の方は、西部地区。同じ方から、三度お電話を頂いた。
先日のさくらんぼの会にもご参加されたかったようであったが、都合をつけたいご様子であり、大変迷われておられたが、断念された模様であった。
さくらんぼの会とは、がんの再発・転移者のランチ会なので、その方は、某部位からがんが再発されておられる。
それにしても、私がこのがん患者会シャロームという患者会を立ち上げて、14年目である。が、この埼玉県内に、全がん対象だけでなく、部位別のがん患者会などが新たに発足したのは、乳がんの会のサヴァという患者会と、(県内では、あけぼの会とこれで、二団体となった。)
当会の二番煎じのようながん全般が対象のすみれの会と、腎がんの会のwithのみである。
すみれの会も、最初は、乳がん患者の会からスタートして、ある時期からがん全般を対象としたことから、女性が会員の大半をしめている。しかし、活動は、泣かず飛ばずである。
どうして、県内のがん患者のサポート体制は整わないのだろう・・・と、思うこともあったが、支援体制が増えたと言っても、全国的に言えば、やはり、がん患者ががん患者さんを支援するというのは、並大抵なことではないと、最近は、考えるようになった。
目立つ患者会がメディアにも登場することから、さも、患者会が全国的に増えたように思えるが、きっと、出ては消えの繰り返しで、全体的には、がん患者が代表となっている患者会は、そう増えていないと思える。
また、ある会の代表は、新たにがんが発覚し、(多重がん)代表の継続が困難になっている。がん体験者によるがん患者会は、とても必要でとてもニーズがあるとは思うが、
やはり、限界があると最近は思っている。活動の場が広がれば広がるだけ、忙しくなっていく。また、求められることも多くなる。
当会も、ご遺族の方はが、一年後にこの会を継承しようかしら・・・・と、思って下さっているが、自分が14年目を迎えて、正直お勧め出来ない。
私と同じではなく、その方のカラーで・・・と、考えていても、会を牽引するということは、本当に並大抵ではない。
仕事ではないので、成果は、形には現れない。時には、労多くして報われることが少ないことも多い。
自分で創意工夫し、自分の時間を削り、研鑽を怠らず、メールでの交信も頻繁に行う。対外的なイベントにも顔を出す。時には講師もこなす。自分でもよくやってきたと思う。
ゼロの状態から、さら地の状態から、形あるものとしたのだから、どこから、そのエネルギーがあったのだろうと、我ながら不思議である。
どちらにしても、当会へのアクセスがあった場合は、関連の患者会や、支援グループなどを紹介するなどして、当面は、他機関でご支援を受けられるようお勧めするほかない。
先週の土曜日電話があった。彼とは、2006年。某NPO法人のボランティア団体で知り合った。
その団体の設立趣旨が素晴らしかったので、それに賛同した志の熱い方や、障がいをお持ちの親御さんたちが自然と集まっていた。
当会の、2006年11月の第一回講演会は、このNPO法人のお名前を借りて、共催とした。集客の8割は、私があらゆる伝手を使って知人に声を掛けた。
そんな素晴らしいと思われたそのNPO法人は、一年、二年する内に、どんどん仲間が去って行った。ある方から、その代表とは、関わらない方がいい!と、私に助言する人もいた。
立ち上げの時から代表とご一緒だった方も、代表と意見が合わなくて、まもなく退会された。正義感が強く兎に角、お優しい方だった。私はとても尊敬していたので、ショックだった。
次々と代表と喧嘩したり、代表に切られ?たりして、サポーターが激減していった。そして、私もまた、この代表と話していると、心が壊れそうになり、ついに私も3年間の活動後退会した。
そして、私は、がん患者会シャロームの代表として生活の重きを置くようにシフトしていった。前出の彼にも、講演会に参加して欲しくて電話すると、作業着で駆け付けてくれた。そんな間柄だった。
互いに困っている人を助けられたら・・・。そんな性格の持ち主だった。
彼はその後、障がい者を農業で自立する事業を展開し、そして、私の尊敬していた女性は、視覚障がい者のボランティア団体の代表を長くやっておられた。
先週、前々から、書いているという自費出版?の本が出来たから我が家に持って行く。というお電話があり、もう一人の『彼女にも渡して欲しい。』という依頼を受けた。
私は、すぐに、その彼女に電話をすると、自分も彼に会いたいから、今から我が家に来る!といって、隣町からすっ飛んで来られた。
まもなくして、彼も合流し、珈麦屋という軽食屋さんで、お茶をした。お夕飯の準備も気にはなったが、こんな日は、冷凍食品で我慢してもらおう!と、主婦二人で腹を決めた。
3人で、ひとしきりおしゃべりした。彼は、労働事故で、右手の全指を失っている。そんな彼が障害を受け入れ、障害児の自立支援をどこの支援も受けずに我流で継続している。
NPO法人から抜けた人たちも、彼のところでスタッフとしてお手伝いをしてくれていると言っていた。
その団体の活動は、自ずと尻しぼみとなり、我々が在籍していた時の活動は、間もなく閉鎖し、本来の障害者のみを対象として自立支援の軽作業を請け負い、細々と活動を続けていた。
そして、その代表も代表のご主人もお亡くなりになっている。事実上の代表であった奥さんは、昨年がんで亡くなったと、前出の彼女から聞いた。
会の代表を続けるということは、並大抵なことではない。仲間に支えられ、仲間がいてくれるから代表をやらせてもらえるのだ。
代表がご立派で、ファシズム的な存在であったなら、このNPO法人のように、当初は人は集まるが、人はとどまらない。歯止めがきかず、退会する人がどんどん増えて行く。会の継続は、そんなに甘いものではない。
言っている事と行動が伴っていなく、自分の意見が正しく、自分に従えない者は、切る!という代表のやり方では、誰もついてはいけなかった。
私にとって、このNPO法人の代表の態度は、私ががん患者会シャロームを牽引する上で、とても参考になった。
がん患者会シャロームは、代表の私というより、会員になって下さった方が、次に参加した方をしっかりサポートして下さる体制が出来上がっていった。
基本は、弱さに触れる。しっかり、受け止める。そのまんまを共有する。この三種の神器とさえ思えることを踏まえれば、人は、自然に集まり、そしてとどまり続けるものだと思っている。
勿論、がん患者会なので、代表の私の自己研鑽は、怠らなかったけれど。
話は、逸れたが、NPO法人のその代表としての働きが、亡くなった後でさえ、代表としての資質うんぬんという話になってしまうことに、ただ、残念としか言いようがなかったが、
三人が口を揃えたこととして、あのNPO法人が、まぎれもなく我々三人を引き合わせてくれた。このことは、感謝なことだった。と、確認が出来た。
そういう流れになったことは、少しは気が晴れた思いであった。
最後にその彼が書きあげた自分史は、なかなか読みごたえがあり、生活力溢れ、生きる知恵が随所に盛り込まれた、成功者としての誇りが詰まっていると思った。
成功者とは、俗世間の価値判断ではなく、農業を通して障害者の自立支援に取り組む、自信と成果の確認であり、
独自で絞り出された、まさに窮すれば通ずのごとく、愚直なまでに、自分のやり方を貫き通した一人の男の足跡であった。
昨日の続きである。
Dさんのmailから
昨年から再び治療が始まりなかなか参加出来ず、久しぶりのさくらんぼの会でした。
会に参加するとほっとすると共に、また頑張ろうという気持ちになります。
二次会ではご遺族の方のお話を伺うことで、普段は忘れがちな主人への感謝の気持ちを改めて感じました。
節約術も教えていただいて、さっそく人参で試してみました。
そしてシャロームさんのご助言のおかげで、納得のいく治療の選択をする事が出来ました。ご相談に乗っていただき、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
Eさんのmailから
さくらんぼの会から日が空いてしまい、すみません。
さくらんぼの会で、〇〇さんの事がとても気持ちに残っているので、書かせて頂きます。
〇〇さんご夫婦を初めてお会いしたのは、杉戸生涯学習センターでの患者の集いでした。
同じがん種である事と、ご夫婦という事で印象に残っていました。
私は去年の夏、抗がん剤治療で入院していたのですが、その時シャローム代表のブログから、〇〇さんのブログを知り、とても面白くて凄く励まされていました。
ブログの事や同じがん種の事で、話しかけたいなと思いつつもなかなか話しかけられず、お話できたのは、レイクタウンのイベントのときでした。
その後私は入院等でさくらんぼの会には参加できず、お会いできないままでした。
さくらんぼの会で奥様が、〇〇さんが患者会の一人一人の似顔絵を書いて覚えてくださっていた事、同じがん種の私の事を気にしてくれていた事を伺いました。
凄く嬉しくて、本当に温かい人だなと思いました。
今はお話があまりできなかった事が心残りです。
病気になってから、やりたい事はやって過ごしていますが、話したい人や話したい事も、心残りのないようにしていかないとだなと思いました。
〇〇さんのご冥福をお祈り致します。