1987年私は、第二子出産の為に、入院していた。
予定日を一週間近くすぎても、その兆候がないため、私は、陣痛促進剤を注射された。通常は、点滴だと思われるが、30分後に少しずつ陣痛らしきものが起こり始めた。
『注射の効き目があった・・。』と、その担当医の口からその言葉が漏れた。
担当医は、初めて会う医師で、看護師さん達と、いつも、チャラチャラとじゃれあうような軽い感じの医師だった。一抹の不安はあったが、もう、お任せするしかなかった。
20年前の医療は、インフォームド・コンセント(説明と同意)などなく、医師の判断で、治療を決定し、有無を言わせず、治療を施すような医師主導型の医療だった。
私は、一般病室から陣痛室に移動され、そこで一昼夜以上、どんどん激しくなる陣痛に耐えながら、ただ、じっとその苦しさを我慢していた。陣痛室には、もうひとつベッドがあったが、その人たちは、次々に分娩室に移って行き、どんどん患者が入れ替わっていた。私だけが、いつまでも取り残されていた。
私は、第一子を逆子による帝王切開だった為に、第2子は、自然分娩での出産を希望していた。しかし、大学病院の婦人科外来のシステムは、グルーム診療という言葉を鵜呑みにし、診察の度に医師が変わっても、仕方ない・・と、疑問すら抱かなかった。(ここが一番の落とし穴であったことを、後で知ることになる。)自然分娩でいけますよ・・・と、言われても、そんな訳で、
私の出産に対する責任ある担当医師はいるはずもなかった。しかし、他の患者さんは、よく見ているとちゃんと外来からの主治医がおり、その主治医が出産に立ち合うことも勿論あった。立ち会えない場合は、後にその主治医が病室までその患者を見舞い、無事な出産を一緒に喜んでいた。
大阪から夫の勤務の都合で東京勤務となり、私は、住空間の狭い都内よりも、また同じ会社の人だけの社宅(集合住宅)よりも、ちょっと余裕のあるある程度の広さの住まいを希望した。
夫には通勤時間がかかり、申し訳なかったが、借り上げ社宅として、越谷に居を構えた。(借り上げ社宅は、家賃に上限があり、その範囲内で適切と総務課が判断すれば許可された。)
引っ越して来たばかりの私は、外来で担当医を決められるという情報を私は、知るよしもなかった。
私は、陣痛室での異常なほどの激しい陣痛が続き、トイレに行くのにも死に物狂いであり、食事をとることなど、勿論出来るはずもなかった。陣痛とは、こんなにも厳しいものなのか・・私は、初めての経験では合ったが、我慢は、もう限界に来ていた。(これは、陣痛促進剤による、副作用で、過強陣痛だったのである。)
医師や看護師を何度もコールする。しかし、お正月明けの忙しさと立て続けの分娩出産に、誰も、私の叫びや訴えなど、目もくれることなく、中には、嫌な顔をする看護師もいた。私は、その後、とんでもない状況に置かれ、私の人生の中で一番のピンチを迎えることになる。この出来事は、当時の週刊誌『女性自身』のノンフィクションのページで取り上げられる。part2へと続きます。
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