山本 孝史議員:29歳の手記!Part2

今日は、午前中に癌研有明病院の婦人科部長 宇津木 久仁子先生とコンタクトが取れた。国立がんセンター中央病院の勝俣医師 済生会栗橋病院の消化器内科長 福屋裕嗣医師と本田医師。これで、講演会の第二部のパネルディスカッションのメンバー4人が揃った。お忙しい先生方には、こんな田舎まで足を運んで頂けること、心から感謝している。

そして、午後は、シャローム女性会員のみのランチオフ会を開いた。引きこもっていたがん患者さんから思い切ってシャローム専用携帯にお電話を頂いた。会員にお声をかけ、今日は6名で、楽しいおしゃべりやお食事を頂いた。

さて、山本議員の20代は、精力的にアクティブにそして情熱的に活動されたことは容易に想像出来る。その躍動感がこの手記からびんびんと伝わって来る。きっと、エネルギッキュに志し高く、我を忘れるがごとく奔走されたのであろう。頭が下がる

すでにその頃からそういた活動を天命と確信されておられたことに、奥さん同様私もまた驚いている。何故なら、当時の私は、ただ自分のためだけに生きていた。山本議員とは、ひとつしか違わない。自分の20代を思うと、とても恥ずかしい気さえする。


 募金のあと、私は「大阪交通遺児を励ます会」をつくることになりました。大学3年生の冬でした。

さっそく上京し、遺児名簿を徹夜で転記。次の日には、発足お知らせ状のあて名書きを始めるという早業のあとは、飯野 俊男君(大阪府立大)という得難い伴侶をえて活動は急ピッチに進み、調査、クリスマス会、募金と続き、翌春には、交通遺児作文集『お父ちゃんをかえせ』を発刊しました。

大学4年生になると、ゼミ担当の野久尾 徳美教授が「実践活動もいいだろう。」と、ゼミ欠席を黙認して下さったのを幸いに、私は、東京にいることの方が長くなりました。

「奨学生のつどい」を応援したり、励ます会を全国に広め、全国協議会を結成するのが目的でした。

8月、そろそろ就職のことも気になり出したある日、玉井先生から「来年から育英会に来ないか。」との誘いを受けました。

「僕の兄は、小学2年の時に、家の前でトラックにひかれて死んでしまいました。ちょうどテレビ放送が始まったころで、死の直前にも『テレビが見たいなぁ』と言ったそうです。

昨日まで元気に遊んでいた兄が次の日からと突然姿を消してしまうという「恐ろしさ」は、体験者でなければわからない。

しかも交通事故が原因では、あきらめきれないじゃないですか!今でも兄のランドセルが、その日の時間割どおりの教科書を入れて置いてあるんですよ」最後の方は、涙声になっていました。
 
1979年に『交通遺児育英会10年史』に寄せた山本さん(当時29歳)の手記から(要約)明日に続く。

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  1. 2008/02/28(木) 21:43:36|
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