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2019_07
03
(Wed)23:15

再会

 先週の土曜日電話があった。彼とは、2006年。某NPO法人のボランティア団体で知り合った。

その団体の設立趣旨が素晴らしかったので、それに賛同した志の熱い方や、障がいをお持ちの親御さんたちが自然と集まっていた。

当会の、2006年11月の第一回講演会は、このNPO法人のお名前を借りて、共催とした。集客の8割は、私があらゆる伝手を使って知人に声を掛けた。

そんな素晴らしいと思われたそのNPO法人は、一年、二年する内に、どんどん仲間が去って行った。ある方から、その代表とは、関わらない方がいい!と、私に助言する人もいた。

立ち上げの時から代表とご一緒だった方も、代表と意見が合わなくて、まもなく退会された。正義感が強く兎に角、お優しい方だった。私はとても尊敬していたので、ショックだった。

次々と代表と喧嘩したり、代表に切られ?たりして、サポーターが激減していった。そして、私もまた、この代表と話していると、心が壊れそうになり、ついに私も3年間の活動後退会した。

そして、私は、がん患者会シャロームの代表として生活の重きを置くようにシフトしていった。前出の彼にも、講演会に参加して欲しくて電話すると、作業着で駆け付けてくれた。そんな間柄だった。

互いに困っている人を助けられたら・・・。そんな性格の持ち主だった。

彼はその後、障がい者を農業で自立する事業を展開し、そして、私の尊敬していた女性は、視覚障がい者のボランティア団体の代表を長くやっておられた。

先週、前々から、書いているという自費出版?の本が出来たから我が家に持って行く。というお電話があり、もう一人の『彼女にも渡して欲しい。』という依頼を受けた。

私は、すぐに、その彼女に電話をすると、自分も彼に会いたいから、今から我が家に来る!といって、隣町からすっ飛んで来られた。

まもなくして、彼も合流し、珈麦屋という軽食屋さんで、お茶をした。お夕飯の準備も気にはなったが、こんな日は、冷凍食品で我慢してもらおう!と、主婦二人で腹を決めた。

3人で、ひとしきりおしゃべりした。彼は、労働事故で、右手の全指を失っている。そんな彼が障害を受け入れ、障害児の自立支援をどこの支援も受けずに我流で継続している。

NPO法人から抜けた人たちも、彼のところでスタッフとしてお手伝いをしてくれていると言っていた。

その団体の活動は、自ずと尻しぼみとなり、我々が在籍していた時の活動は、間もなく閉鎖し、本来の障害者のみを対象として自立支援の軽作業を請け負い、細々と活動を続けていた。

そして、その代表も代表のご主人もお亡くなりになっている。事実上の代表であった奥さんは、昨年がんで亡くなったと、前出の彼女から聞いた。

会の代表を続けるということは、並大抵なことではない。仲間に支えられ、仲間がいてくれるから代表をやらせてもらえるのだ。

代表がご立派で、ファシズム的な存在であったなら、このNPO法人のように、当初は人は集まるが、人はとどまらない。歯止めがきかず、退会する人がどんどん増えて行く。会の継続は、そんなに甘いものではない。

言っている事と行動が伴っていなく、自分の意見が正しく、自分に従えない者は、切る!という代表のやり方では、誰もついてはいけなかった。

私にとって、このNPO法人の代表の態度は、私ががん患者会シャロームを牽引する上で、とても参考になった。

がん患者会シャロームは、代表の私というより、会員になって下さった方が、次に参加した方をしっかりサポートして下さる体制が出来上がっていった。

基本は、弱さに触れる。しっかり、受け止める。そのまんまを共有する。この三種の神器とさえ思えることを踏まえれば、人は、自然に集まり、そしてとどまり続けるものだと思っている。

勿論、がん患者会なので、代表の私の自己研鑽は、怠らなかったけれど。

話は、逸れたが、NPO法人のその代表としての働きが、亡くなった後でさえ、代表としての資質うんぬんという話になってしまうことに、ただ、残念としか言いようがなかったが、

三人が口を揃えたこととして、あのNPO法人が、まぎれもなく我々三人を引き合わせてくれた。このことは、感謝なことだった。と、確認が出来た。

そういう流れになったことは、少しは気が晴れた思いであった。

最後にその彼が書きあげた自分史は、なかなか読みごたえがあり、生活力溢れ、生きる知恵が随所に盛り込まれた、成功者としての誇りが詰まっていると思った。

成功者とは、俗世間の価値判断ではなく、農業を通して障害者の自立支援に取り組む、自信と成果の確認であり、

独自で絞り出された、まさに窮すれば通ずのごとく、愚直なまでに、自分のやり方を貫き通した一人の男の足跡であった。